詳しくなろう!長崎!~天草・島原の乱~

こんにちは。博多サウナーぷりかです。
今回の記事はサウナ出てきません(笑)

次のサウナ旅は熊本湯らっくすと長崎サウナサンの道中ルートを開拓しにいきます。その下調べで島原半島を調べていたら【島原の乱】についての記事がひとつ出来ちゃったので、せっかくだから載せちゃいます。

その土地の歴史を知って、訪問する楽しみを増やしましょう!

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▼次のサウナ旅はサウナサンから小浜・雲仙・島原を巡って湯らっくすへ向かいます!


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【島原・天草の乱】
今回は世界遺産にも選ばれた天草・島原から【島原の乱】を紹介していきます。


まず九州は昔【九つの州】があったことから九州と呼ばれるようになりました。この内、島原の乱に関係してくる国は肥前国(今の長崎県と佐賀県)肥後国(熊本県)の一部になります

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島原の乱は日本の歴史上でもっとも大きい農民一揆といわれています。

反乱の主な原因には幕府が定めた以上の重い税(年貢)の取り立てや食料の不足による農民の反乱説が有力とされていました。


ですが、最近では乱が起こる26年前にマルコス神父(キリスト教の宣教師)が残した「26年後、世界が滅亡に向かうときに乱が起こる。その年に天の使いが現れる」という予言が原因ではないかという新しい説が出てきました。

当時、不思議な力があると噂が立っていた天草四郎時貞を「天の使い」と信じこむ人たちが現れ、キリスト信仰を迫害されていた領民達が信仰の自由を勝ち取るために戦った側面が大きいというお話しです。

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当時の島原・天草はキリスト大名が処罰された直後だったため、キリシタンに対しての処刑や焼き討ちなど、とてもはげしい弾圧がありました。不作や重い取り立ても重なり、世界が滅亡に向かっていると考えた農民も多かったのでしょうね。


まず最初に肥前国(ひぜん・長崎佐賀)の島原の領民たちが「いいかげんにしろやぁ!」と暴れ始めます。これにより島原城を中心とした島原一揆が初まりました。

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数日後には天草諸島の領民たちも「ワイらもやったるでぇ!」と暴れだします。天草の勢力は肥後国(ひご・熊本県)の天草市にある本渡城(ほんわたりじょう)と西にある富岡城を襲います。

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城攻めを有利に進めていた2つの反乱勢力でしたが、幕府の討伐軍が近づいているという情報をキャッチします。『まずい。このままでは城を攻め落とすよりも先に討伐軍が到着してしまう…』と判断した2つの反乱勢力は討伐軍の追撃を避けるため、共に南島原市まで移動します。

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南島原で合流した2つの反乱勢力は、キリシタンの間でカリスマ的な存在であった天草四郎時貞を総大将に据えて原城(この時すでに廃城)に立てこもります。(※偶然合流したのではなく反乱前に2つの反乱勢力の有力者同士で打ち合せが行われていました。)

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※天草四郎時貞(当時16才)

援軍が来ないのに城に立てこもる作戦はあまり良い作戦とはいえません。それなのに反乱勢力はなぜ城に立てこもったのでしょうか?

一説にはキリシタンが多かった反乱勢力は『宗教の自由を求めた戦いだよ!』という強い想いがあったので、弾圧されている各地のキリシタンやポルトガルの人たちが援軍に駆けつけてくれると信じて立てこもっていたという話があります。立てこもる場所に後ろが海に面していて逃げ道のない原城を選んだのも、海から援軍が来ることを期待していたからだとか。

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※両軍の布陣図


ですが、旗色の悪い反乱勢力にポルトガルの援軍がやって来ることはありませんでした。

それどころか、当時ポルトガルと貿易戦争を繰り広げていたオランダが海から幕府軍の援軍として加勢しています。

オランダはキリスト教を信仰してはいましたが、キリスト教の普及を目的としていたポルトガルとは違って『キリスト教を普及しない』という約束をもとに日本との貿易を独占していました。立場を明確にするのにはちょうどいい機会だったのです。


キリスト教にはカトリック派(人物と伝承を重視する派)とプロテスタント派(聖書の内容を重視する派)があり、同じ宗教ではありますがお互いに仲は悪かったのです。日本で広がっていたのはカトリック派でした。オランダのキリシタンはプロテスタント派なので、カトリック教徒である日本のキリシタンを攻撃することには、なんのためらいもなかったんですね。


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これには海からの援軍を期待していた反乱勢力の人たちも心に大きなダメージをおったのではないでしょうか。

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※反乱軍は黒田水軍に同行したオランダ商船から数発の砲撃を受けました。


何度も幕府軍を退けていた反乱勢力でしたが、70日にもおよんだ兵糧攻めにより士気も体力も下がり、だんだん窮地においこまれます。寛永15年2月28日12万人にまで膨れ上がった幕府討伐軍による総攻撃を受けて1日のうちに鎮圧されてしまいました。

天草四郎をはじめとする反乱勢力は女性や子供も問わず全員が殺されたと言われています。

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※総攻撃の絵画

当時原城で合流した反乱勢力は最低でも3万7000人にのぼるといわれています。

いちばんの当事国でもある肥前国(ひぜん・長崎佐賀)の討伐軍への参加戦力は下記の通り。

佐賀(鍋島家)3万5000
唐津(寺沢家)7570
島原(松倉家)2500
合わせて4万5070人です。

これを踏まえると3万7000人の反乱勢力はかなり大規模な反乱軍だったことが分かりますね。


鎮圧後は信仰の自由をのぞんだ願いとは裏腹に鎖国によりキリシタンの弾圧は加速していきます。


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※画像はイエスキリストの踏み絵

ただ、幕府が決めた以上の重たい課税を行っていた島原藩には厳しい罰が下され、時間はかかったものの島原・天草では正常な政治が敷かれることになりました。

なお、天草四郎を初めとする反乱勢力は宗教弾圧に対する反乱だったとは言い切れない要因(重税・食料不足など)があるため、現在においてもキリスト教からは殉職者とは認められていません。

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